今日7月30日は、真木準さんのお別れの会
今日はコピーライター真木準さんのお別れの会「眞木準さんを偲ぶ会」です。
新聞に出ていたので、誰でもが参加できます。
わたしも献花の花を1輪持って行ってきます。
わたしもコピーライターの端くれですが、お話ししたことはありません。
ただ、かつてデパートのコピーライターをしていた頃、心密かに、勝手に「ライバル」としてみていました。そして、その次の会社で、少し遠い縁ができて、勝手に心の中で親近感を抱いていました。
「眞木準さんを偲ぶ会」
日時:平成21年7月30日(木) 17時~20時
会場:青山ダイヤモンドホール 「ダイヤモンドルーム」(東京都港区北青山3-6-8)
○献花として好きな花1輪持参
○上記時間内で、都合の良い時間に平服にて参列を
○また、供花、香典、供物は、主催者側の意向により受付ていません
■あまりに突然の訃報
眞木準さんの訃報を聞いたとき、驚きました。若すぎる、まだ早すぎる…と。
実際、遅くまで仕事をしていて帰宅して、そのまま夜中に倒れられたと聞きました。
あまりの突然の死は、ご家族には受け入れがたいこと。
こんなとき、弔電も、供花も、信じがたい死が現実であることを、ご家族に突きつける刃になる気がして、かといって、ご家族に手紙を書くにも適切な言葉ひとつ思い浮かばず…結局、何もできませんでした。
だから、今日、献花の花を1輪持って行こうと思います。
■コピーライターの時代の象徴のひとり、眞木準さん
コピーライターの時代と言われた80年代、眞木準さんはその象徴のお一人でした。
わたしといえば、そんな時代になるとは知らずに、コピーライターになってしまいました。
70年代末、文章を書くのが好きだけど、小説など創作する気はさらさらなく、編集者を目指していた学生だったわたしは、同じ大学の美術学科で広告デザイナーを目指していた連れ合いと出会い、コピーライターという職業を知り、天職だと思ってしまいました。
高校時代は演劇部にいて、既存の台本を「読み込み」、「その表現方法を考える」作業が大好きでしたが、舞台演劇の世界のアンチコマーシャリズムがいやで、その道へは進みませんでした。
コマーシャリズム(商業主義的)なわたしにとって、商品という台本を「読み込み」、「その表現方法を考える」コピーライターという職業は、まさに天職だと思い、コピーライターになった年、80年代が始まりました。
■心のライバル、眞木準さん
わたしがコピーライターの勉強を始め、多くの業界の大物の作品を見ていた頃、憧れたコピーライターは西村佳也さんでした。でも、勝手に一方的にライバル視していたのは、眞木準さん。
というのは、わたしが最初にコピーライターとして仕事を始めたのは、デパートの宣伝部。当時の課長は「99人が『すばらしい』というコピーでも、1人が『不快』というコピーはうちは要らない。100人が100人とも『可もなく、不可もない』コピーが良いコピー」と言っていたほど、超保守的なコピーが求められました。
その中で、それでも安全牌ではなく、ギリギリ通るコピーを考える日々。
糸井重里さんの西武のコピーは遠すぎて、眞木準さんや土屋耕一さん(ああ、土屋さんが亡くなったのもこの春でしたね)の書く、伊勢丹のコピーが、わたしが書いて通りそうなコピーに近かったのです。
実際、ほぼ同じコピー、わたしが書いて通せなかったボツコピーとほぼ同じコピーが、後に眞木準さん作の伊勢丹の広告になっていたこともありました。ま、コピーは時代とクライアントに合っていなければ意味がないのですけど…。
勝手にライバル視のおかげで、ずいぶん鍛えていただきました。
ありがとうございました、土屋さん、眞木準さん。
■番外…デパートのコピーライター時代の苦い思い出
話がずれてしまうけど…デパートでは、コピーをじっくり考える暇はありませんでした。
最初に仕事を覚えるために、ディレクターについて歩いたときに、ただ見学していられずに、つい手を出したばかりに、すっかりその仕事を任されるようになってしまい、「営業部との連絡、撮影などの手配…といった仕事をしたら、どれでも好きな仕事のコピーを好きなだけ書いていい」と、コピーライターの名刺を持ちながら、コピーを書くことは自分の趣味扱いされてしまうはめに陥っていたからです。
それでも、任された手配師の仕事さえしていれば、好きな広告を選んで、好きにコピーを書けました。
後に広告代理店系プロダクションに入って、コピーを考えるための時間のあまりに長いことに驚きました。たとえばデパート時代なら1時間のところが、1ヶ月とか…単位がちがいすぎて、気が遠くなりました。
また、作品がめったに作れないことにも驚きました。デパート時代なら、1日に新聞広告数本に、ポスターに、チラシに…と数作品ができるのに、代理店の下でメーカーの仕事をすると、競合プレゼンは多いし、なかなか自分のコピーが印刷されて世に出ることがありません。
いま思い返せば、デパートの宣伝部から仕事をスタートしたことは恵まれていたのでしょう。
当時はとうてい、そうは思えませんでしたが…。
新人で、しかもプロダクションからの出向社員という身でありながら、宣伝部を代表して、営業部の部長相手に金の交渉をしたり、メーカーからの広告掲載依頼を断る悪役をしたり、胃が痛くなる日々でした。
当時だけでなく、辞めた後まで、この影響は続きました。
次のプロダクション時代に、「デパート時代、コピーライターじゃなかったから」という理由で、仕事を降ろされたことがあります。
わたしと名刺交換をした相手なら、「コピーライター」という名刺を受け取っているはずであり、そのメーカーの分野なら、わたしがコピーを書いていたはずなので…。わたしが掲載決定権を持っていた広告スペースに掲載依頼が来て、断ったくらいの関係しか思いつきません。こちらにとってはお会いしたこともない、知らない相手、でも相手からは「若造の癖して、断りやがって」と恨み骨髄だったのでしょうね。
あれから何十年も立ちました。もう時効だろうと思い、つい、苦い思いを書いてしまいました。
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